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執筆者の写真太郎 小原

鎌倉時代を考えたいと思います。

更新日:2023年9月17日

平安時代は貴族の時代です。疫病の時代です。餓死する庶民が大問題となりました

餓鬼草紙で知ることができます)。  


私は、武士の時代の始まりを、北条政子に見ています。 


北条政子は、源氏を滅ぼしました。 

北条家は、天皇(後鳥羽上皇)を島に追放しました(1221年_承久の乱)。 


鎌倉時代は、実力社会でしたが、不幸でした。大地震(1257年 正嘉の大地震)・疫病(天然痘)・飢饉(冷害)が発生。道路に死人が満ちた。


寺は死人と病人の収容所になりました(極楽寺)。寺を運営するために権力者(北条家)の寄付(布施・寄進・檀家組合)が必要となりました。 


奈良仏教・京都(比叡山)は鎌倉時代にどうなっていたのか。荘園をもち、僧兵を訓練させ、対立した寺に放火しました(比叡山と園城寺が何度も放火しあった)。 


その大混乱の時代(平安時代の末期)、浄土宗の法然は何をしたか。貴族仏教と戦って、流罪されました。念仏を禁止されました(法然_1133~1212)。 


日蓮も同じように「京都・鎌倉の僧侶は人の道を外れている」と非難しました。 


日蓮(1222~1282) 


日蓮は法然と同じように、仏教界から猛攻撃を受けました。「仏教界を混乱させた罪」を着せられた。日蓮は何度も武士に身を包囲されました。刀を向けられ、勇敢に受けた左腕が折れた。振り下ろされた刀で、頭に傷を受けました(1264年 小松原の法難で弟子が死亡)。


そして死罪を言い渡されたあとに撤回され、「すぐに佐渡へ行け」と言い渡されました。 

(殺されるか、飢え死にしてこい、という意味と考えてよいでしょう) 


日蓮の業績です。大地震を経験し、日本に起こっていない最悪の不幸を予想した。 

(1260年 立正安国論) 


日蓮の予言。それは、外国からの侵略です。モンゴルです。


モンゴルは、軍隊に馬を最初に導入しました。ヨーロッパのウクライナまで侵攻。ペスト菌(黒死病)をヨーロッパに流行させた。中国大陸で宋を滅ぼした。朝鮮半島を押さえた。そして日本に使者を送った。使者は斬り殺された。



そしてついに日蓮の預言通り、モンゴルが対馬を侵略しました。対馬の人たちは手に穴を開けられ、奴隷として連れ去られた。博多の武士は小船で奇襲しました。 


鎌倉幕府に恐怖は伝わりました・・・

待てよ・・・!? 日蓮だけが、他国侵略を予言していたのではなかったか?! 

なぜ日蓮をいまだに佐渡に流罪させているのか!?!罪もないではないか!!


鎌倉幕府(執権 北条時宗)日蓮は僧侶であり予言者である!祈らせよ!!呼び戻せ!! 


鎌倉幕府(平頼綱)流罪・死罪の罪を着せたことをわびる。悪く思うな。寺を寄進致す。幕府のために祈ってくれたまえ。 


日蓮「国の安泰のための祈りはお断りいたす」「寺もお断りいたす」 


それよりも貴殿(平野依綱)こそ、心を改めよ。法華経を信じることをお勧めする。 


鎌倉幕府(平頼綱)驚愕して声もでず。(なぜそのようなきれい事を・・・)  


平頼綱は、日蓮ではなく庶民の法華経の信者をいじめることにした。 

そのいじめはすさまじく、「えん罪で」信者を殺したと言われている(熱原の法難)。 


平頼綱生年不詳~1293)は、長男に告訴されて死罪になっている。 


鎌倉幕府の滅亡は、1333年。日蓮の死(1282年)後、51年の後でした。 


武士の新田義貞が海(稲村ヶ崎)から無理な攻撃を成功させました。 


鎌倉幕府の滅亡後、室町幕府(1338 年)まで、武士は日本を統治していません。


後醍醐天皇が「建武の新政」を行いました。この間、大混乱の時代です。


後醍醐天皇の壮絶な人生です(奈良・吉野から見る)。鎌倉幕府により追放(1332~33年 隠岐の島流罪脱出しています。  


ポイントは、鎌倉幕府滅亡に足利高氏(尊氏)が貢献したこと(人物図)。 


後醍醐天皇は、武士の登用・統率(恩賞・格上げ)を排除したこと(解説


後醍醐天皇は、仏教(禅宗・律宗)を信仰。法華経を信仰されなかった。 


後醍醐天皇の大混乱・大苦悩の人生は、日本の天皇家の苦悩と私は思います。 







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